平成11年9月27日から10月3日の間、高松「宮武画廊」において、60年代文化研究所主催で開催した「あれ、どこいったんや?」展。作品の一部をご紹介します。

■エポックの野球盤
 
当時の少年の憧れのオモチャは、何と言っても野球盤。機能によっていくつかのグレードがあり、“ええとこの子”は高級盤を持っていた。確か私はカーブが投げられたので中間くらいのものだったと思う。高価なものは確か、マウンドとバッターボックスの間に奈落のような穴の仕掛けがあり、投げた瞬間にその穴を開くとボールが消える、まさに少年マガジン連載されていた“消える魔球”だ。エポック社さん、あの工夫に敬意を表します。アナログの野球ゲームに乾杯!!
■安全器
 昨今見かけなくなったのが、ヒューズを使った安全器。現在の家庭のようにたくさんの電力を必要とはしなかったが、やはり時にはヒューズが“とんだ”のである。そこで踏み台を持ってお出ましになったのが、父親であった。その父親の後ろ姿を見た子供たちは、父親は偉い人、万能な人だと信じていた。でも今は「ヒューズがとんだ!」とは言わず、「ブレーカーが落ちた!」なのである。ブレーカーとともに偉かった父親も地に落ちつつあるのかも知れない。
■新聞紙(しんぶんがみ)
 日本の高度成長時代、八百屋さんやお菓子屋さん、その他いいろいろな所で重宝したのがこの新聞紙(しんぶんがみ)。 読んでいる時は新聞であり、読み終えてしまったら新聞紙となって第二の人生を送るのだ。今コンビニで盛りそばなんかを買うと、食べる前から食卓がゴミだらけになり、いやな気分で食べた経験があるのは私だけではないと思う。60年代、お好み焼き屋さんがお持ち帰りに包んでくれた新聞紙のインクとソースのミックスしたあの味が忘れられない。
■真桑うり
 現在も出荷を続けている産地(岐阜県真正町)の方には失礼だが、夏に井戸で冷やして食べたあの頃の「まくわうり」は最高だった。メロンの味に近い“憧れアメリカ”の味だった。また、近所にあった「ザクロ」をかじり、種をプッと吐き出す。そして、夏の海には欠くことのできない「青リンゴ」もおいしかった。今はおいしいものに慣れてしまったのか?いやそうじゃない。絶対にウマかった!!
■三角ベース
 友達が数人集まり、わずかの空き地があれば遊べたのが“三角野球”だ。ベースなんかいらない。捨てられていた段ボールが立派なベースだ。そしてあの鋭角の塁を、すねを擦りむきながらも懸命に駆け抜けた。とにかく60年代の子供たちは外でよく遊んだ。親が夕飯を告げに来るまで暗くなるまで遊んだものだ。陣取り、戦争ごっこ、チャンバラ、B玉、めんこ、石けり等々。道具がなくても遊び方を工夫した。とにもかくにも、遊ぶことにかけては彼らはみんな天才だった。
■正義の味方
 善良な市民が危機にさらされ、間一髪で現れたのが月光仮面。つまり今のヒーローのように早い時間からは現れず、崖っぷちに立たされた時に現れるのである。野球で例えるなら、9回の裏に絶対のリリーフ投手がブルペンからマウンドに上がる瞬間に似ている。だから、月光仮面が現れたらもう大丈夫、決まってお客はスクリーンに向かって大きな拍手を送った。何でも容易に手に入る現在、こんな感動を僕たちに呼び起こしてくれた桑田次郎先生に、今改めてお礼を言います。
■青春歌謡
 
ぼくのあだ名を知ってるかい…♪60年代前半にブームとなった「青春歌謡」はどこへいったか? つい最近、上野駅の16番ホームが長い歴史の幕を降ろした。清く、貧しく、美しく…。不安がいっぱいで社会に旅立った若者達…。そんな彼らをを応援した歌も、今は町から聞こえてこなくなったことは淋しい思いがする。時代だけで片づけないでほしい。若者の“こころ”は今も昔も同じだ。
■風呂敷
 入れるものが多い時は大きくなり、少ない時は小さくなる便利な“カバン”がこの風呂敷。−大風呂敷を広げ過ぎて失敗した人の話もよく聞いたが−。昔はこの風呂敷を持参していく大人をよく見かけた。外出先で時には借りて帰ることもできるカバンだ。でも返却する時は何かを包んで返すのが礼儀だった。人と人との心を通わせることができる便利グッズのひとつに、愛すべきこの1枚のカバンがあった。
■ジュークボックス
 学生時代、ゲームセンターや地下の怪しげな店などにあったジュークボックス。確か100円で3曲聞けた記憶がある。でも今はFMや有線放送。いわゆるタダで聞ける手段がいっぱいあるのが現状だ。また録音媒体もカセットテープに始まり、何とも便利なMD、最近ではCD-Rも普及してきた。当時は好きな曲がラジオから流れると、ここぞとばかりに聞いて曲を覚えたものだ。音楽文化発展のためにも著作権を守り、これからもいい音楽を楽しみたいと思っている。
■アサガオ
 この夏何を思ったか、子供の頃窓辺で咲き誇っていたアサガオを思い出し植えてみた。ところが我が家の猫の額程の庭には植えられず、プランターでの植栽となった。しかしあの狭いプランターでは伸び伸びと育つどころか、短い添え木しか出来ず、彼女のツルは最も上に辿り着くや否や下に向かって降下し始めたのである。挙げ句の果てには、台風で鉢ごと倒れる始末。季節の訪れを感じさせてくれる花さえ植えられなかった今の我が家を情けなく思った。
■テレビカバー
 父権喪失の一因となったテレビ_。床の間近くで偉そうに四ッ足を広げて突っ立っていた代物も、今やちょっと映りが悪くなったというだけで路上に捨てられる運命だ。当時テレビは立派な調度品でもあった。しかも、午後の放送がお休みの時間帯には、大切にヴェルベットの幕が降ろされ大切に扱われていた。ところで、なぜ今テレビからあの“幕”がなくなったのだろうか?
■ペン先とペン軸
 今や時代の産物とも言えるパソコン、ワープロ。漢字が書けない若い人が増えたことは残念だ。60年代、ゼブラが“見える見える”と言ってポールペンを発売するまでは、万年筆全盛時代だった。そして、ノートパソコンが万年筆なら、デスクトップ型はまさにペン先とペン軸(ペン先とペン軸がばらせるタイプ)であった。 書くひと文字ひと文字に力のある、そんな万年筆が好きだった自分も、こうしてパソコンでこのコメントを“入力”しているのが何ともおかしい。
■火の用心の貼り紙
 昔、どこの家庭の柱にも貼られていたものに、短冊型小型ポスター「火の用心」の貼り紙があった。よく考えてみると、あれだけ全国的に貼られたポスターは前代未聞だ。後のクラリオンガールも今の浜崎あゆみも真っ青だ。公共団体が作製したもので、あれ程国民の理解を得たものは少ない。この際、「交通安全」の貼り紙、「薬物乱用防止」、「性犯罪防止」などの貼り紙を作製してはどうだろう? でも柱サイズでは使えないかも知れない。
■呼び出し電話
 1960年代初め、電話がある一般家庭は非常に少なく、そのため近所の電話がある家に頼み、呼び出しをしてもらっていた。そのせいか、電話は必ずといっていいほど玄関においてあった。本当は少しは迷惑だったと思うが、呼び出しを頼まれた家も快諾してくれ、日常の会話もうまれたものだ。ところで、最近の使いにくいタウンページだけは何とかならないの? 電電公社さん。
■ハガネ
 僕らの小学校時代、筆箱に必ず入っていたのが、あの鉛筆を削る鋼(はがね)だ。刃と背の両方からぐるっと回して止めたもの、刃のフタ部分がカラフルなプラスチックのもの_いろいろあった。うまく鉛筆が削れず、指を削ったことも_。でもそのことによって、知らず知らずのうちに刃物は危険だということの実体験ができたと思っている。あの体験学習の道具とも言えるハガネを子供たちから取り上げてしまったのは、僕たち親なのだ。
■銭湯
 我が家には“五右衛門風呂”と呼ばれるものがあったが、やはり時たまおじいちゃんと行く○○温泉には感動していた。入った途端のふわっとした石鹸混じりの湯気の香り。壁に描かれていた富士山の絵。家では考えられない怪しげな“色粉”の入った湯。店では買えなかった牛乳瓶入りのメロンジュースの味。まるで別世界であった。あのお世話になったお風呂屋さんがどんどん廃業していく現状に淋しい思いがしてならない。何と言っても暖かかったのである。

 60年代文化研究所所長 吉田道夫

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